2015年10月17日

「赤とんぼ」をはじめ数多くの郷愁あふれる曲を残した山田耕筰の没後50年を機に「時代を楽譜に刻んだ男 山田耕筰」がNHKで放送された。山田は、日本で初めて交響曲を書き、日本初のプロ・オーケストラを作った。戦後は戦中の軍部協力への指弾と向き合いながら、平和への祈りを込めた作品を書いた。「南天の花」は、長崎の原爆投下で妻を失い、自らも被爆した永井隆医師の詩に曲をつけたもの。

 

▼山田は6、7歳のころ築地居留地で暮らし、西洋音楽に目覚める。番組では築地居留地研究会の水野雅生理事長(ミズノプリテック会長)が「教会からは讃美歌が聞え、洋館からはピアノの旋律が聞えるという、東京の中において西洋音楽が聞える、まったくほかにはない場所だったと思います」とナビゲーターの石丸幹二に説明した。

 

▼「ただ、放送では山田が印刷に関わりのあったことは省かれてしまった」と水野理事長はいう。山田の元マネージャー・渕眞吉氏の記した「山田耕筰と築地居留地」には「少年耕作は、田村直臣牧師の自営館に預けられた。自営館は当時の貧書生を収容して、昼間は活版所で働き、夜は学習する福祉施設である」とある。

 

▼自営館は当時、からたちの木で囲まれていた。山田は、活版工場でつらい目に遭うと、その垣根まで逃げ出して泣いた。「からたちの花」は「自営館生活に於ける私のノスタルヂアだ。そのノスタルヂアが白秋によって詩化され、あの歌となった」と山田は自伝でのべている。「からたちの花」には印刷人の生活が潜んでいた。田村直臣が創立した自営館ゆかりの巣鴨教会にはいま「からたちの花記念碑」が建つ。

(歩) 2015.10.12

 
 

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