2022年02月28日

先日、歴史家で作家の加来耕三氏が日本オフセット輪転印刷協議会(西川誠一会長)の40周年記念特別講演会で「歴史に学ぶ、魅力あるリーダーとは」をテーマに話した。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国三英傑、戦国「最強」の武将といわれる立花宗茂らを例に魅力あるリーダーのあり方を説いた。歴史に学ぶためには、①歴史を疑ってかかる②歴史上の人物を飛躍させてはいけない③数字を重視したものの考え方を徹底させる、の3点が重要であるとして、事跡を挙げて注意を促した。
 

▼立花宗茂は、歴史に詳しい方ならご存じなのだろうが、一般にはあまり知られていない。生涯不敗の武将として歴史通の間では評価が高いらしい。詳しくは加来氏の『立花宗茂 戦国「最強」の武将』を参照していただくとして、同書から宗茂を簡単に紹介すると、伊達政宗や真田幸村と同じ永禄10(1567)年生まれ。東国の本多平八郎忠勝と並び称される西国の人物で、秀吉は2人を東西無双と称えた。①島津氏の大軍を支えた戦い②朝鮮出兵の最中の寡兵による大勝(文禄・慶長の役)③関ケ原の戦いにおける大津城攻めにおける勝利、という3つの奇跡的勝利を収めている。友軍の関ケ原大敗により、宗茂は秀吉から拝領した筑後柳河の領地を家康に取り上げられてしまうが、20年の歳月をかけて柳河に大名として復帰する。
 

▼戦国時代、最初に九州統一に挑んだのは、宗茂の旧主である大友義統(よしむね)の父・宗麟。その九州制覇を阻止したのが島津義久・義弘兄弟。天正6(1578)年11月の耳川の合戦で大敗を喫した大友軍に入れ替わるようにして義久は、九州統一へと邁進する。そこに勃興したのが龍造寺隆信で、宗麟の勢力圏に分け入り、島津氏とも和戦両構えで勢力を拡大した。九州は三国鼎立の時代を迎えた。ところが、隆信は天正12年3月、義久・義弘の弟・家久と有馬晴信の連合軍に敗れ、戦死してしまう。天正13年10月、秀吉は島津氏に九州における戦闘行為の停止を命じていたが、島津氏はこれを無視。秀吉は、家康の存在があり、九州征伐にはすぐには向かえなかった。宗麟は天正14年、秀吉に助けを求めた。秀吉が家康に臣下の礼をとらせることに成功し、天正15年3月、後顧の憂いなく九州征伐に出陣。5月に島津氏は秀吉に降伏する。直情径行の宗麟だが、家老に過失7カ条を挙げて諫められると壁に書いて朝夕読み、反省したという。「一は爾曹(なんじ)の忠誠を奨むる所なり、二は我が過失を匿(かく)さざるところなり。三は諸臣士の善言を啓くところなり」
 

▼宗茂は寛永19(1642)年に江戸で亡くなり、下谷(現・台東区)の廣徳寺に葬られた。廣徳寺は、関東大震災で寺域が消失、その後の区画整理で墓地を現在地(練馬区桜台)に移し別院とした。その後、本坊が移転。現在は同寺と福岡県柳川市の福厳寺に墓がある。「いにしへの道を聞きても唱へても わが行ひにせずは甲斐なし」(島津忠良「いろは歌」)。とはいえ、せめて宗茂を偲ぼうと、廣徳寺を訪れたが、山門内非公開とのことで墓参は遠慮した。

 

(「月刊印刷界」2022年3月号から)

 
 

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